FIAT PANDAと自転車。僕の“ちょうどいい”遊び方

STORY

FIAT PANDAと自転車。
僕の“ちょうどいい”遊び方

FIAT PANDAと自転車。僕の“ちょうどいい”遊び方

自然遊びを楽しむなら、まずは自分の身の丈に合ったスタイルがいい。誰かと競っているわけでは無いのだ。装備を揃えすぎたり、無理に遠くへ行こうとしなくてもいい。
僕にとって、その象徴が今乗っているFIAT PANDA 4×4 Climbingだ。コンパクトで取り回しがよくて、それでいて悪路もそこそこ走れる。必要があれば自転車も釣り道具も工夫次第で積み込める。

 

青いパンダと小さな相棒

青いパンダと小さな相棒

20万kmを目前にしたPANDAは左ハンドルマニュアルの四輪駆動。

昔は大きな四駆に憧れたこともあったけれど、今ではこの“小さな四駆”が自分の遊び方にはぴったりだと思っている。何でも積めるわけじゃないからこそ、自分にとっての「ちょうどいい」が見えてくる。
車との関係も、自然との付き合い方も、きっと同じだと思う。

小さな四駆

釣り用の折り畳み自転車は、車のこの位置に収まることを前提に選んだ。

ある朝、ぽっかり予定が空いた。ふと思い立って釣りに行くことにしたけれど、本格的な準備をするにはちょっと遅い。潮見表を確認すると、ちょうど大潮。近くの海なら、満潮後の潮が動き出すタイミングに合いそうだ。今日はのんびりとサビキ釣りにしよう。そう思って最低限の道具を積み、PANDAを走らせる。
海沿いのパーキングに着いたら、まずは後部から折りたたみ自転車を下ろす。リアハッチを開け、小さなフレームをさっと組み立てる。PANDAの積載量は決して多くはないけれど、それがかえっていい。不便さが、遊びの質を整えてくれる。釣り道具も、ザックに入る分だけに絞る。そうして荷物を背負い、自転車でポイントを目指す。

ARAYA HANDY DUCK

スライド式のフレームで素早く組み立てられる機能美!

使っている自転車は、30年ほど前に作られたARAYA HANDY DUCK。独創的なスライドフレームを持つ古い折りたたみ自転車だ。錆だらけだったものを自分でレストアして、オールペンした。ギアはシングルスピード。無理はきかないけれど、それもまた「ちょうどいい」。
お気に入りの自転車で走ることそのものが、自然遊びの一部。スピードを出す必要なんてない。舗装と未舗装が入り混じる道をゆるゆると進み、ポイントを見て回る。野鳥の声が聴こえたら、自転車を止めて双眼鏡を取り出す。自分だけのゆったりしたときが流れていく。

釣り場

釣り場に着いたら、まずは足元に仕掛けを落とす。今日の狙いはアジ、イワシのサビキ釣り。時期的にはまだ早いけれど、キスのちょい投げも準備しておいた。本格シーズンにはほど遠いけれど、空の色、潮の香り、風の音……そういうものに包まれているだけで、じゅうぶん満たされる。
今日は“本気の釣り”じゃない。だけど、自然に触れるという意味ではとても濃い時間だ。

自然遊び

思い出を作るのに、“映え”はいらない。車と自転車で少しだけ足を延ばして、ひとつの季節を丁寧に拾っていく。そんな等身大の小さくて豊かな自然遊びが、ぼくは好きだ。

 

釣り場で考える、
自然遊びのこと

釣り場で考える、自然遊びのこと

しばらくすると、竿先がふっと動いた。リールのハンドルをゆっくり回しながら、意識がほどけていく。そんなとき、頭のなかにふと考え事が入り込んでくる。
「自然遊びって、なんだろう?」
僕にとってそれは、ただの“レジャー”じゃない。楽しいし、気晴らしにもなる。でもそれだけなら、ゲームでも映画でも十分なはずだ。

  • 自然遊び

  • 自然遊び

自然遊びには、それ以上のものがある気がする。例えば、自分の体温と風の温度との微妙な違いに気付いたとき。鳥の声がふと止んだときの、不思議な静けさ。その背後に、もしかしたら何かの気配があるのかもしれないと感じたとき。自然の大きさのなかに、自分がすっと溶け込んでいくような感覚がある。
僕はよく「自然に遊んでもらっている」という。それは謙遜でも、謎のスピリチュアル宣言でもない。ただ、こちらがどれだけ準備して、計画して、意気込んでも、自然はおかまいなしだ。雨が降る日もあれば、魚がまったく釣れない日もある。危ない思いをすることだってある。

釣りに使うリール

気軽な釣りに使うリールは、かれこれ25年ほど前に買ったもの。

でも、そうした“うまくいかなさ”のなかにこそ、自然と遊ぶということの本質がある気がする。ゲームみたいにルールも採点も決まっていない。勝ち負けもない。ただ、自分の「楽しみ方」が、そのまま自分らしさになっていく。自然を通して、自分を知る——そんな感覚に近い。
たまに風が竿先を揺らす。アタリかと身構えるが、空振り。だけどそれも心地よい。こうして竿を握りながら考えを巡らせているこの時間が、何よりも貴重なのだと思う。

自然遊び

冬になると僕は、自然遊びの矛先を“狩猟”に向ける。
魚が釣れない季節に、同じようなフィールドへと歩を進める。釣竿を猟銃に持ち替え、農耕地や山の奥へ分け入って鳥や猪などの獲物を探す。今日の天気なら、獲物がどう考えて、どう行動し、どこにいるか。思考と五感がフル回転し、自然のなかで集中していく。これもまた、釣りと同じように自然のなかに身を置く時間だ。
狩猟と聞くと、どうしても“命のやりとり”という側面が強調されがちだ。命に感謝、とか、畑を守る、とか、いかにも正義や倫理で包みたがる声も多い。でも、僕にとっての狩猟はもう少しシンプルで、ただただ「自然遊びのひとつ」として好きなだけだ。

オリジナルのコマセ

魚醤を絞った後のもろみをベースにした、オリジナルのコマセを使った。

ただし、釣りとは決定的に違うことがひとつある。それは、「獲る=命を奪う」という行為が、否応なく含まれていること。この事実が、狩猟という遊びに独特の重さと緊張感を与える。
「今日は本当に撃ちたいのか?」「それは食べたいからか? それとも、ただ獲りたいだけじゃないのか?」——そんな問いを自然のなかで繰り返す。その過程にこそ、意味がある気がしている。

自然遊び

小さなイワシも、山の猪も僕にとっては同じ命。

それは自然との対話であると同時に、自分自身との対話でもある。だから、釣りと狩猟は違う遊びのようでいて、僕のなかでは実はつながっている。どちらも「自然に遊ばせてもらう時間」であり、「自然に対して身をゆだねる時間」でもある。季節が巡るように、僕の自然遊びも巡っている。ただそれだけのことなのだ。

 

生活のどこかに
命との接点を残す

生活のどこかに命との接点を残す

魚の気配のない海もまた、美しい自然だ

この日は、正直いって釣果には恵まれなかった。あたりも少なく、思うように釣れない。まあ、まだ春先で本格シーズンよりはだいぶ早い。こんな日もあるし、だからこそ先駆けて調査が必要だ。
でも、ポツポツと釣れてしまった小魚たちがいる。結果としては食べ出の無い量の釣果だが、自分の遊びの延長で命を奪ってしまった事実は避けられない。

かわいそうだったな

こういうとき、「かわいそうだったな」で済ませたくはない。だから僕はその小魚たちを持ち帰り、そして、小さな瓶で魚醤を仕込むことにした。
魚醤は時間をかけて発酵していく。気温や湿度、微生物たちの働きによって、ゆっくりと変化していく。何ヶ月かあとにようやく瓶を開けて、その味に出会える日がくる。つまりこれは、小さな命との付き合いを先へ先へと引き延ばす作業でもある。

釣りのゴミ

釣りのゴミは確実に片付けること、これも遊んでもらった自然への敬意。

「いただきます」「ごめんなさい」というだけでは済まない関係。 忘れてしまわないように、命との接点を生活のどこかに残す。そんな営みも、自然遊びの一部。
釣りも狩猟も、やっていることは遊びだけど、相手が生きものだからこそ、「命と関わることの重さ」がついてくる。それを重苦しくはしたくないけど、軽く流すのも違う気がする。
その折り合いを探しながら、僕は今日も自然に遊んでもらっているのだ。

自然遊び

note:
38 TUNES (Yuu Miyahara)

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