STORY
ビギナーズラックの呪縛

生活圏に海がない環境で育ち、海釣りはあまり縁がなかった僕。それでも近頃は東京湾の奥湾でのオカッパリ・シーバスの世界に足を踏み入れ、ようやくたまに釣果を得られるようになってきたところ。
夜の運河や橋脚下でルアーを漂わせ、突然やってくる震えるほどの衝撃。あれをもう少し広い世界で味わいたくなって、このたび念願のボートシーバスデビューをすることにしたのだ。
朝焼けの海へ

家を出たのは午前3時。眠い目をこすりながら早朝に出かけるなんて、僕の生活では登山かスキーにいくときぐらい。だけど今日の目的地は山ではなく海。ガラガラの首都高を走り抜けて、横浜の船宿まで1時間のドライブをした。
お世話になったのは、東京湾のガイド船「Sunny Fishing Guide Service」。船長の家田成大さんはシマノのフィールドテスターでもあり、東京湾で20年に渡ってガイドをしているプロ。知人いわく、僕みたいな初心者でも相談すれば気さくにアドバイスをくれるということだった。

あまり不安を持たずにここまでやってきたけど、見慣れない景色についキョロキョロしてしまう。出船してすぐに、僕の知らない静寂に包まれたみなとみらい。巨大なベイブリッジを潜り抜ける頃には、夜明けの水平線から太陽が顔を覗かせる。貨物船のシルエットが長く海面に伸び、反射した金色の水面が踊った。
夢中になって写真を撮る僕を横目に、無駄のない操船で船を滑らせる船長。エンジン音と風切り音だけが耳に残る。

やがて船は静かに止まり、いよいよ僕のボートシーバス初挑戦が始まる。移動のあいだにタックルはすでに準備されていて、船長が「今日は何から行きます?」と声をかけてくる。僕は慌ててルアーケースを開き、中身を差し出した。
事前にYouTubeやネットで調べて、ミノーを中心にそろえてきたものの、実際のところ最近よく釣れているのはバイブレーションや表層を攻めるウェイクベイトらしい。

「よく“船に乗れば必ず釣らせてくれる”と期待して来るお客さんがいますが、実際はそう簡単じゃないんですよね」と船長。その日のコンディションや経験からアドバイスはできても、相手は自然であり魚。結局はアングラー自身の腕にかかっているという。
そう言いながらも、「この時間はチャンスだから、このルアーを使ってやってみたら?」と、160mmのカウンターウェイクを特別に貸してくれた。右も左もわからない僕からすると、闇雲にルアーを投げるよりもこうしたヒントは何より心強い。
船上のキャスト講座

風も波も穏やかで、どうやら今日はコンディションがいいらしい。とはいえ僕にとっては初めての船釣り。揺れる足場に気を取られつつ、慎重に立ち位置を決め、深呼吸してからキャストに臨む。
普段使っているルアーより二回りも大きなボディをフルスイングで飛ばすと、全身を使っているような感覚があって、とにかく気持ちよかった。

そうして何投か投げていると「そんなに力任せに大きく振るんじゃなくて、ロッドのしなりと反発力でルアーを飛ばす感覚にしないと」と、船長からアドバイスが。どうやらフルスイングすればいいってもんじゃないらしい……。
独学で覚えた拙いキャスティングを真正面から指摘され、顔が少し熱くなる。けれど、ベテランにフォームを見てもらえる機会など滅多にない。恥ずかしさよりも、この場で直せるチャンスのほうが大きかった。

普段はここまで細かく教えることはないのだろうが、あまりのぎこちなさを見かねてか、半ばキャスト講座のような時間が始まった。ロッドの曲がりと戻りを意識しながら、教わった動きを反復し、キャスト&リトリーブを繰り返す。
ルアーが水を押し分けて泳ぐ感触が手元に伝わる。その小さな手応えを頼りにしつつ、余計なアクションは加えず、ルアーを信じて表層を探り続けた。
まさかの大物との対面

釣り始めてから小一時間。太陽がすっかり昇った頃、海中のコノシロの群れが反射して、キラキラと輝くのが見えた。すかさずその一団にまぎれるようにウェイクベイトを通すと、突然ずしりと重い衝撃。心臓が跳ね上がる。
突然の出来事にびびって竿を立てたのが功を奏して、しっかりフッキングできたみたい。しかし次の瞬間、竿は大きく弓なりに曲がり、ドラグがジージーと悲鳴をあげる。竿を持っていかれそうになるのに耐えながら、船底へ潜り込もうとする力強い走りをかわし、大立ち回りが始まった。

「船でシーバスを釣る」という目標しかなかった僕にとって、こんなパワフルなのがかかるとは予想外。慌てふためきながら一心不乱に格闘した末、銀色の魚体が浮かび上がってきて船長のネットに収まった。
大きさを測ってみると全長は約84cm。東京湾ではランカーと呼ばれるサイズが最初から釣れてしまうという、絵に描いたようなビギナーズラックが起こってしまった。

心の準備も釣れた実感もわからぬままに写真を数枚撮らせてもらって、弱らないうちに海へ返してあげる。ヒットしてからリリースするまでのほんの10分間は鼓動が鳴りやまず、気付けば記憶が曖昧になるほどあっという間に過ぎ去っていた。

あのサイズは10年以上生きてきたおばあちゃんクラスだろう、と船長。次にいつ出会えるかわからないほど貴重な相手なのに、その重みをもっと噛みしめておけばよかった……。そう思うと、後からじわじわと後悔が湧いてくる。
東京湾ドリームをわずか数時間で叶えてしまった僕は、それでもなおあの引きをもう一度味わいたくて、再びキャストを繰り返した。
興奮が心を乱して

しかし、そこからは海が口を閉ざしたように静かだった。ルアーを変えて広範囲を探っても、反応はない。「そんなに甘いもんじゃないぞ」との天啓か?ただ頭のなかで成功のイメージを繰り返すほどに、今の状況の苦しさが増していく。
あの一発の衝撃があまりに鮮烈で、知らぬ間に欲が膨らみ、冷静さを欠いているのが自分でもわかる。「次も釣れるはず」という思いは、ギャンブルの当たりを追う感覚に似ているのだろう。

大物のヒットから約5時間。帰港が近づく頃、ようやくロッドが小刻みに震えた。先ほどとは明らかに質の違う引きでサイズは小さいとわかったが、それでも祈りが通じたようで嬉しさが込み上げてくる。

姿を現したのは元気なワカシ。大物の余韻に浸る僕に対して、「また来いよ」と送り出すような一匹。心に溜まっていた焦りがふっと抜けて、気持ちが楽になったような気がした。

釣れない時間が釣りの面白さを引き立てるというなら、今日ほど心の振れ幅が大きい日はない。ボウズではなく、朝一番に大物を手にしてから長い沈黙を味わうというパターンに遭遇し、あらためて釣りという修行は一筋縄ではいかないと、船の揺れに身を任せながらひとり振り返る。
けれど同時に、あの衝撃と重みがもう薄れかけていることにも気付く。あの感触を呼び戻すために……。いや、それを超える興奮を求めて。気がつけば、僕はすっかりビギナーズラックという名の呪縛に囚われていた。